恩地町の概容
About Onji-town
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恩地町はJR浜松駅の東南3kmに位置し、東西650m、南北850mに広がる町です。町の東側を芳川が流れ、町の北側は参野町、南側は大柳町、西側は都盛町に隣接しています。
人口は1800人、世帯数は800ほどで、町の北半分は住宅地、南半分は農業地域に区分されています。(2022年現在)
恩地町公会堂は地図の青マーカの場所にあり、ドローン部はこの公会堂を基地として、毎月第1日曜日に飛行訓練をしています。
恩地町の風景
公会堂上空150mから見た南側の風景
彼方に太平洋が見えます。
公会堂の東側の風景
手前に芳川、彼方に天竜川が見えます。
公会堂の北側の風景
画面の下部が恩地町の町域です。
公会堂の西側の風景
馬込川の方向を見ています。
町名の由来
恩地という地名の由来には諸説があるようですが、ここでは「恩地村雑記」という小冊子に記載されている話を紹介します。この話は、恩地町の旧家・太田家の古文書に伝えられてきたもので、現代文に要約すると以下のようになります。
今川氏真がこの地域を領有していた頃と云いますから、桶狭間の合戦(1560年)のすぐ後のことと思われます。この地域一帯は大柳村に住む安間興三郎という豪族が所有していたのですが、その家が貧しくなり年貢を納めることができなくなったので、太守・今川氏真はその土地を取上げました。この時、この地の有力者・太田彦十郎政忠は、母が安間家の女であったので、代わってこの年貢を納めました。太守はこれを多として、この一帯の土地を政忠に賜ったのだそうです。
ところが村民は、この土地は安間から買ったものだなどと騒ぎ立てたので、困った政忠が村民の言を太守に告げると、太守は政忠に「この土地の領有を許す。」という宝印一封と、「村中四十六所明神及び白山権現の神田の租税を免除する。」という宝印を与えたので、村民は何も言わなくなり、訴訟はことごとく治まった。
太守はよろこんで、「田主に代って年貢を納めて国を助けるのは、主を思い 親を思うこの上ない心である。その義に感じてこの土地を恵むのは自分の恩澤である。よってこの土地を恩地村という名にすれば、名実合わせることができるだろう。」と言われた。それからこの土地を恩地村というようになったということです。
恩地町の歴史
恩地町の歴史といっても、そう大したことが伝わっているわけではありませんが、手元の2~3の本やその他の情報を集めて纏めてみました。
初めはごく短文に纏めるつもりでしたが、書き進めるうちにいろいろ追加したいことなどが出てきて、何やら長い文章になってしましました。読まれる方は、どこからでも拾い読みしていただいて結構です。
さて、歴史というと何時から語り始めるかが問題になりますが、ここでは古事記の例に倣って日本列島の誕生から始めましょう。
日本列島の誕生
日本列島は約3000万年前まではユーラシア大陸の東の縁にあって、大陸の一部だったそうです。それが2500万年前に、突如、大陸から切り離され太平洋側に漂い出たらしい。このとき日本海が生まれ、これが徐々に広がって、大体1500万年くらい前に日本列島の骨格らしきものが出来たようです。
これは感覚的にどのくらい前の出来事かというと、北半球の恐竜が絶滅したのが6600万年前だそうですから、それと比べるとかなり新しいこととも言えます。
とにかく、そうしてできた列島の骨格に太平洋から島々が押し寄せてきて衝突したり、東北地方が隆起したりしていましたが、最終的に60万年前、伊豆半島が衝突して今の日本列島の形が出来上がったのだそうです。
60万年前というとずいぶん最近のことのような気がしますが、この頃、日本列島にヒトがいたかというと、とんでもない。現生人類(ホモサピエンス)がネアンデルタール人との共通の祖先から分岐したのは、最近の古代DNA研究によると64万年前と言われていますから、このころ世界中どこを探してもアフリカ以外には現生人類(ホモサピエンス)は住んでいなかったはずです。
人類の日本列島への進出から恩地町近辺に人が住み始めるまで
アフリカで誕生した人類は何十万年もその地で暮らし続け、その間、いくつかのグループが出アフリカを試みたようですがいずれも失敗。最終的に、6万年前にアフリカを出発したグループだけが出アフリカに成功し、世界中に広がって現代人になったのだそうです。
約4万年前に日本列島に進出してきた人類もこのグループの子孫で、世界史的に言えば旧石器時代の人々だったようです。遠州平野にもこの人々が進出していて、いまから1万4千年~1万8千年前の人骨が浜松市の北部地方で発見され、浜北人とか三ケ日人とか呼ばれています。ここは恩地町から北に30kmほど離れた土地で、狩猟・採集の生活をしていた人々には住みやすい環境だったのだろうと思います。
そして、いよいよ日本の縄文時代が始まるのが1万5千年前です。
それでは、この頃の日本の人口はどの位かというと、これを推定した学者がいて、それによると今から8100年前の日本列島の人口は、何とわずか2万人!
これでは恩地町近辺の土地にヒトが住んでいたとはとても思えないですね。
大体、縄文時代は氷河期から間氷期に移っていく時期で、徐々に温暖化に向かい、海水面も上昇して6000年前のピーク時には海面はいまより2~3m高かったといいます。現在の恩地町の標高は3.5~4mくらいですから、もしかしたら満潮時には水面下になったりして、とても人の住む環境ではなかったかもしれません。
さて、いまの恩地町に当たる土地にいつ頃から人が住むようになったのかと考えると、大きな手掛かりになるのが伊場遺跡の存在です。
伊場遺跡は恩地町から5kmほど西にある遺跡で、弥生時代の紀元100年ごろには既に大きな環濠集落があり、稲作も行われていたようです。ですから、この頃、この近辺には伊場の環濠集落を中心に多くの集落が点在していたと考えられ、恩地町界隈にも人が住んでいたと想像してもあながち的外れではないと思います。
恩地の地に人が住んでいた最古の証拠は町内で発見された海東遺跡で、籾の跡のついた土器の破片などが出土し、少し離れたところからは2個の銅鐸が見つかっています。浜松市ホームページの年表によれば市内各地に銅鐸が埋められたのは紀元200年ころだといいますから、海東遺跡もこの頃のものと推定されます。
紀元200年ころというと、日本のどこかに卑弥呼女王が君臨していた時代で、恩地には卑弥呼の時代から人が住んでいたのかと思うと、何やらロマンが感じられるような気がします。
ちなみに卑弥呼の時代の日本人口は、先の研究者によると日本全体で220万人だったそうで、この中にはわが恩地町のご先祖さまも入っていたのでありましょう。
海東遺跡の集落はその後、奈良、平安から江戸時代にかけて継続して使われ続けていたようで、それぞれの時代の遺物が出土していますから、この界隈にはずっと人が暮らしていた事が分かります。
海東遺跡は恩地町内に芳川ハイツを建設するときに偶然見つかったもので、発掘調査が終わった後に埋め戻され、その上に芳川ハイツが建設されました。だから海東遺跡そのものは、もうありません。
奈良・平安時代の恩地
今の恩地町は、昔は、遠江国長上郡川勾庄(かわわのしょう)恩地村といい、海東遺跡の時代以降もずっと農村として存続し続けました。
奈良時代には、伊場遺跡の場所に郡衙(ぐんが)や駅家(えきや)という政府の役所があったそうですから、この辺りはそれなりに地方の要衝として機能していたようです。
川勾庄は平安時代には京都仁和寺観音院の荘園だったそうです。この荘園はかなり広くて、東は現在の磐田市竜洋町から西は浜松市の白羽町まで東西約6kmに亘る大荘園で恩地村はその真ん中あたりにありました。
建久3年(1192年)といいますから、源頼朝が征夷大将軍になった年、恩地村を含む川勾庄の一部が仁和寺から高野山金剛寿院に寄進され、高野山はその管理を末寺の頭陀寺に委任しました。この時以降、恩地近辺38か村は頭陀寺の管理下に入り、頭陀寺荘と云われるようになりました。
平安末期から鎌倉初期にこの地方から出て活躍した人に、源範頼がいます。この人は、川勾庄の北隣・池田庄にあった蒲御厨(かばのみくりや)の生まれで、源頼朝の異母弟にあたり、出生地にちなんで蒲冠者とも呼ばれていたそうです。
蒲御厨は恩地村から北に約3kmの所にある東海道沿いの場所で、東海道池田宿に隣接していました。今でも、蒲協働センターなどに地名が残っています。
源範頼は、兄・頼朝に招集され、その名代として木曽義仲との戦や平家討伐の遠征軍に総大将として活躍しましたが、鎌倉に凱旋した後、頼朝に謀反の疑いをかけられ、修善寺に幽閉され誅殺されたと伝わっています。
範頼も、源氏の御曹司として蒲御厨に留まっていれば平和な生涯を送れたかもしれないのに、つい鎌倉に打って出たため波乱の生涯を送ることになってしまったのでしょう。
武士の時代の恩地
鎌倉時代以降、戦国時代から江戸時代に至る間、恩地村界隈に関する記録は殆ど知られていません。
ただその中で比較的有名なのは松下加兵衛でしょう。
松下加兵衛は戦国時代の1500年代中期から後期にかけて活躍した武将で、この地方の名刹・頭陀寺の門前に屋敷を構え、その屋敷は頭陀寺城と呼ばれていました。
当時、遠江は今川義元の領地でしたので、加兵衛も義元の家臣・飯尾氏に仕えていました。この頃、若き日の豊臣秀吉がしばらく加兵衛に仕えたことがあったといわれています。この縁で、加兵衛は後に秀吉に召し出され、最終的には袋井・久野城1万6千石の大名になっています。
ところで、そこに至るまでの加兵衛の足跡はなかなか波乱に富んでいて、今川義元が桶狭間で戦死(1560年)すると、加兵衛は、浜松に進出してきた徳川家康に乗り換え(1570年)、徳川の武将として掛川城攻め(1570年)や高天神城の籠城戦(1574年)に参加しました。そして高天神城が武田方に降伏したとき、当時、長浜城主だった秀吉に召し出され、秀吉の武将として各地を転戦したようです。
その間着実に昇進を重ね、最後は袋井の城持ちになった(1590年)というのは前述の通りです。
松下加兵衛の人脈で面白いのはその娘たちの嫁ぎ先で、長女は「町名の由来」に出てきた恩地村の豪族・太田氏に嫁いでいます。次女は、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって死んだ夏目次郎左衛門の妻、ここまでは家康の家臣同士の付き合いという事で理解できます。ところが三女は、なんと、徳川家の剣術指南役・柳生宗矩の妻だったそうです。松下家と柳生家にどう云う繋がりがあったのかはよく分かりません。
江戸期に入ると、元禄時代に助郷(すけごう)という制度が始まり、街道沿線の農村を苦しめました。助郷というのは、大名行列などが街道を通過するとき、宿駅周辺の農村から農民を徴発し、人夫として籠を担がせたり荷物を運ばせたりする制度で、恩地村も浜松宿の助郷に組み入れられました。
恩地村の昔ばなしとして、助郷に駆り出されたことのある古老の話が伝わっています。
曰く、「お姫様の籠は軽くて楽だったが、大男の籠は重くて大変だったよ・・・。」
余り深刻な感じは伝わってこない気がしますが、どうなんでしょうか?
江戸末期、この地方にも打ち毀しと呼ばれる激しい一揆が起きました。
事の起こりは、天保の改革で有名な水野忠邦が浜松藩に転封(1817年)してきたことで、忠邦は中央では幕閣として権勢をふるいましたが、地元浜松藩ではかなりの苛政を行ったようで地元の農民たちには大変恨まれていたようです。
ところが天保の改革も思うに任せず、水野忠邦は失脚して弘化2年(1845年)山形に隠居・左遷されてしまいます。
この時、水野は農民から借りた金を返さず、そのまま移動してしまったため、農民たちの怒りが爆発し、弘化3年(1846年)、米蔵を襲ったり庄屋の家を打ち毀すなどの激しい一揆が起こりました。
恩地村もこの渦中ににあったようで、これも古老から伝わる話として、「ぶっかあし(打ち毀し)に行ったらな、お殿様が馬に乗ってきて『余は井上河内守である。汝らの願い聞き届けてつかわす。静かにいたせ。』と大声で言ったら、みんなシーンとなった。」という話が伝わっています。
事の真偽はともかく、水野忠邦の後をうけて浜松藩に移封してきた井上正春がこの一揆を鎮めたのは確かなので、もしかしたらこのような事があったのかもしれません。
人口の推移
ここでまたちょっと人口の話をすると、卑弥呼の時代に220万人だった日本人口は、奈良に都が出来たころは450万人、平安末期(1150年頃)に至って大体680万人位になったそうです。
それが、戦国時代を経て関ケ原の合戦があった1600年には1200万人と急増しています。戦の世ながら人々は生産力を上げ、人口を増やしていったのでしょう。
更にこれから約100年後、徳川吉宗が将軍についた享保(1720年)の頃、人口は何と3100万人まで増えたそうです。この頃までは新田開発などが盛んに行なわれ農業生産力も倍増したのでありましょう。
この後、人口はあまり増加せず、3000万人台をずっと継続して明治に至っています。(ちなみに明治6年(1873年)の人口は3330万人。)
さてそこで恩地村の話になりますが、恩地村の一番古い記録は寛文10年(1670年)で、村の戸数は27軒、石高は263石でした。その後の延宝5年(1677年)の検地帳では34軒と記録されています。
さらに寛政4年(1775年)、田沼意次の時代の記録では50軒に増え、その後、明治に至るまで50軒から60軒の辺りを推移しています。明治3年(1870年)の戸数はちょうど60軒でした。
言ってみれば、江戸初期から明治までの300年で恩地村の戸数は30軒から60軒へ倍になったという事でしょうか。
それでも、これを、2022年の恩地町の戸数(800戸)と較べると今昔の感に耐えません。
浜松藩から浜松県そして静岡県へ
元亀元年(1570年)、徳川家康が進出してきて浜松城を築いて以来、江戸期を通じて浜松藩は有力な幕閣を輩出して出世城と呼ばれましたが、反面、江戸時代267年間に22人もの譜代大名が入れ替わり治めるなど、異動の激しい藩でした。石高は江戸期を通じて、大体3万石から7万石、譜代の常としてそんなに大きな石高ではありません。
明治4年(1871年)に廃藩置県が行われると、浜松藩はそのまま浜松県となりましたが、明治9年(1876年)、静岡県に吸収併合されて現在に至っています。
恩地村の界隈は、明治初期には敷知郡、浜名郡、長上郡などが入り乱れていましたが、明治29年(1896年)に浜名郡に統一され、その後しばらくは、浜名郡芳川村字恩地と言っていました。そして昭和29年(1954年)、芳川村が浜松市に合併してからは浜松市恩地町となり現在に至ります。
令和5年現在は浜松市南区恩地町ですが、令和6年1月からは浜松市中央区恩地町となる計画です。
(令和5年7月24日)
参考資料
このコラムを書くに当たり、下記の書籍を参考にしました。
1.日本の歴史 1 列島創世記 鈴木武彦 小学館
2.人類の起源 篠田謙一 中公新書
3.人口から読む日本の歴史 鬼頭 宏 講談社学術文庫
4.恩地村雑記 浅井喜久男 非売品